十月十色

Do or Don't --- that is a question。子育てとか、家事とか、読書とか。

積みかさねる日々をいとおしむ『そなえることは、へらすこと。』

モノを持たないのは、
手を空けて何かをする余地を持ちたいから。

モノを持たないのは、
うつろいゆく日々を尊く感じていたいから。

そんなふうに持たない暮らしを実践されている方の本に出会いました。「たくさん」と向きあう度量が自分にはないから、少ないモノで暮らして今としっかり向きあいたい。そんな想いにあふれるエッセイです。

そなえることは、へらすこと。

そなえることは、へらすこと。



「持たないひと」を生んだ呪文のようなささやき

叱られることはおろか、「少しは片づけなさい」というような小言さえ云われず、「ふんちゃん(わたしだ)!」とも叫ばれなかったのは、不思議だ。ただ、母がわたしの耳元で「片づけのコツは、持たないこと」とささやきつづけた。まるで呪文のように。
山本さんは4人家族で育ったそうです。ご本人は子どもの頃たいそう「持ちたがり」の「散らかし屋」。一方、ほかの3人は持つことに慎重なタイプ。むやみにモノを持とうとはせず、すでに持っているモノを大切にする家族。

そんな人たちに囲まれて、母親から片づけの呪文を刷りこまながら育ったからこそ、その時がきたら一気に「持たないひと」へ変貌したのでしょう。私も「持たないひと」になって、子どもたちの耳元で呪文をささやきつづけたい。

そんな山本さんが「持たない暮らし」を始めた動機は、時間の節約だったそうです。


持たない暮らしで風を呼びこむ

どこからでも風を呼びこむことができ、それが家のなかをすううっとめぐるような暮らしがしたい。家のなかだけではなく、こころのなかにも、ひととひとのあいだにも、風を通したい。モノが多すぎたのでは風が通る道をふさぐし、物欲にからめとられれば、こころもごたつく。ごたついたこころでは、ひとを想えないということだ。
「モノを減らすとうちがパワースポット化する」と聞きますが、きっとそれは風の通り道ができることも影響しているのだと思います。光が射しこみ、風が通りぬける家。想像するだけでも心地いい。

最近、モノがないスペースを少しずつ増やす取り組みをしています。まずはテーブルに何も置かないことからスタートしてみました。

何があろうと、寝る前にはテーブルの上に何もない状態にする。すると、そこだけ空気が澄んで光っているように見える。あまりに気持ちいいから、何もないスペースをもっと増やしたくなる。そんなふうに加速する気持ちに、行動が追いつくといいな。


柄の主張をなくすひと手間

出版社に勤めてい時代の先輩に、たいへんな読書家、蔵書家というひとがあった。一度だけお宅にうかがったとき、すべての蔵書に包み紙(裏の白地をおもてにして)のカヴァがかけてあり、背に自筆で書名と著者名が書きこんである背表紙の連なりを見た。おびただしいと云っていいほどの本の数なのだが、その部屋は、しんと静まりかえっていた。
そこまでやるか!? と、また自分の常識限界を破壊してくれるエピソードに出合えて嬉しいです。これだから、本を読んだりミニマリストブログ読んだりするのはやめられない。積極的にシンプルライフやミニマリスト関連の情報収集を始めてから、どんどん視野が明るくなっていくので楽しいですね!



積みかさねた日々をいとおしむ

何の変哲もない、などとつい思いかけるような生活でも、同じ場所にずっととどまっていることはできない。うつろうことを思えば、生活の積みかさねをもっとありがたがらなければならない。
ちょっと前にこんな記事を書きましたが、、、
『劇的ビフォーアフター』を観て、自分の人生を考える - 十月十色

同じに見える日々でも同じではないんですよね。たしかに、今日の味噌汁の味は昨日のものとは同じようで違う。同じ出汁、同じ味噌でも、具が違えば全然違う味わいが生まれる。その違いに気づけるのは、自分の暮らしに向き合って感覚を大事に生きているからなんだろうな、とふと感じました。

モノがなくても感謝があれば生きていけるのかも。

そなえることは、へらすこと。

そなえることは、へらすこと。